【レポート】 福住廉のレクチャー:活動のすすめ

7月19日,ZAIMで,美術評論家の福住廉(ふくずみれん)のレクチャーを聴講した.トリエンナーレ学校第5回として企画されたものだ.受講者の条件はなく(また受講無料で)すべての人に開かれている会だが,広報のされ方や当日の参加者を見るかぎり,横浜トリエンナーレのサポーター(ボランティア)が主な対象となっていたようだ.「市民に何ができるのか?―市民参加と横浜トリエンナーレ」という,テーマの設定もそういうところから出てきたもので,おそらく主催者側から提示されたものなのだろう.というのも,福住さんがレクチャーで語ったのは,テーマで示されている,市民やトリエンナーレ,あるいはサポーター(ボランティア)というような枠組みを,外していくような方向性での話,というか活動に対する鼓舞だったからである.


トリエンナーレ学校というのは,前回2005年のトリエンナーレ開催時(とその準備期間)に同名で開かれていたものから,名前やコンセプトを踏襲しているのだと思う.しかし,今年のトリエンナーレが,その2005年のトリエンナーレとは随分と違ったものになりそうだ,ということを,多くの人はもう意識・認識している.本体のあり方が変化すれば,ボランティアがどのように関われるのか,という活動の中身も異なってくるのは想像がつく.福住さんは,前回のトリエンナーレについて扱った論文「市民芸術論的転回―クリティカルな視点から見た「横浜トリエンナーレ2005」」(*1)において,川俣正によってディレクションされた2005年トリエンナーレの特徴として,「祝祭性」と「市民参加」の2点を挙げている.レクチャーの中では,「市民参加」について,大きな時代の流れに則ったものでもあったと,多少留保を付けながら示されていたようにも感じられたが,それでも(前回のトリエンナーレが)「「市民参加」についてはこれからの新たな国際展のありようを垣間見させることができていた」(前掲論文より)という評価が大きく変わったわけではないだろう.ただ,そのようなあり方がそのまま,今回のトリエンナーレでも実現・出現すると決まっているわけではないのだ(このような直接的な発言がされたわけではないが).

そういう状況の中で改めてどのようなボランティアの活動の可能性があるのかを問う,というような方向へは福住さんの話は進まない,そうではなくて,元々トリエンナーレのボランティアというかたちで,活動をはじめたのだとしても,自身の活動をその枠内,その人間関係の内に押し込めておかず,はみ出していけばいい,という方向へと進む.これを,市民参加の可能性を示したトリエンナーレのボランティアの活動でさえも,1つの出発点でしかないのだ,と受け取ることもできよう.ここらあたりから,トリエンナーレ(とサポーター活動)というローカルな話を離れ,福住さんがどのような「活動」に魅力を感じているのかが伺えるような話へと展開していく.重要なのは,というか福住さんが惹かれるのは,そうやって何かをきっかけに始められた個人の活動が,思わぬ展開を見せる(あるいは思いもしなかった可能性を開いた)時,ということが1つにはあるようだ.その時,活動をしている人にとって,もともとの立場が何であろうと,後には引けない状況が引き起こされていたりする.そのような一連の出来事(の展開)に対してワクワクするというのは多くの人にも共感できるところではないかと思う.そこでの個人は,自分の中でヒットしたものにこだわり,それを実現したり世の中へと広めたりする活動に熱を持って取り組む.動き出す前から,お金の問題(助成をどうしようとか)や人材の問題に悩むこともない.このようにして,美術のエッセンスにしても,文化的なものにしても広げられていくのだろう,というような話が語られた.

福住さんは,具体例として,佐藤修悦/修悦体についての映像を作り,展覧会を企画したトリオフォーの活動について紹介していた(*2).トリオフォーの人(山下さん)が駅で,後に修悦体と呼ばれるようになるものを見かけ,ガツンとやられるところから話は始まる.それは,自分の中でヒットするものを見つけたという段階.そこから,それを作ったのは誰なのかという探索へと動かされる.そして作り手が見つかり,インタビューが試みられる.これだけでも,十分突き動かされているという感じだが,さらに山下さんがやっているお店(古着屋)で,修悦体/佐藤さんを紹介する展覧会まで開催し,多くの来場者が訪れることになる,というところまで展開するのだ.トリオフォーの人は,もともとキュレーターというような職にあったのではない(また佐藤さんもアーティストではない).

福住さんは「市民は何でもできる」と言っていた.これは,レクチャーのテーマにあった問い(「市民に何ができるのか?」)に律儀に答えたものでオマケ(サービス)と捉えてもいいだろう.上に書いてきたような話だけで(自分の場合は)十分鼓舞されてるところはあった.ところで,上では紹介できなかったのだが,「市民に何ができるのか?」という問いの設定中には,専門家に対して(市民は何が?),という部分もあったようで,レクチャーでは,そのように二項対立的に捉えるのではなく,という話の流れを描きつつ,それでも,専門性が完全に否定されるわけではない,とも言われていた.市民は(アートに関する専門性を持たなかったとしても)それぞれのフィールドでの専門性を持つ,ということが示されつつも,やはりアートの専門性というのもそう簡単に否定されるべきでもないという話になっていた.それに関係して,北九州市立美術館で美術の専門教育を受けた学芸員が一人もいなくなるという異常事態が起こっていることが,レクチャーの冒頭近くで紹介されていた.しかし,これは,(常識的に考えても)あまりにもおかしな事態になっているという話で,アートの専門性のどのような部分が,市民参加(市民の活動)で置き換えることはできないのかというような議論へと導かれるような例ではなかった.また,先述の,専門性と市民を二項対立的に捉えるのではなくて様々な活動がでてくればいい,ということに関して,そういう状況の中で重要なものとして(再)浮上してくるのが,批評という基準である,という話があったのだが,これについてももう少し突っ込んだ議論を聞きたかった.というのも,美術評論家である福住さんの専門性は普通に考えると,そのような批評,テキストを書くことにあるわけで,ご自身としてはそれをどのような営為として捉えられているのか気になる(それは素人の人が書く批評―そのことを福住さんは推奨するわけだが―と同じ線上にあるものなのか?とか).ここで言われている,批評とは,学問的技術ではないこと,一般的に想像されるような,詩的な文章をこねくり回したり,難解な現代思想のテキストを参照しているようなテキストとは,また別のものだとは言われていたが,じゃあそれでは・・・のところを聞きたい.批評を書くなら,現代思想への参照はマスト,というのは明かにおかしいが,それではどんなものを読み,それをどのように示す・使う,のか? 福住さんは現在,バンカート・スクールで「アートの綴り方3」という講座を担当されているので,そちらではそういう話も出るのかもしれない(この講座は人気だそうで,残念ながら定員に達しているようだ)(*3).

今回このレポートを書くにあたって,福住さんが書かれているものを探索してみたが,主な執筆メディアは,『美術手帖』や(ウェブサイトの)『artscape』あたりのアート専門メディアのようだ(*4).なんかもったいないなあという気がする.自分がそのテキストに触れる機会がなかったのも納得かなと思ったり.今回のレクチャーを真に受けた者としては,もっと色々な話題が混ざっているメディアで読みたいなあと思うわけだ.そして,本当にホントに真に受けるのなら,読みたいなあと思ったんなら,自分で企画でも立てて,こういうメディアでこういうことについて書いて下さいとか,話聞かせてくださいなどと依頼するとか動いてみろよ,ってことになるのだろう.そういう気にさせられるレクチャーだった.(*5)



*1 福住さんの論文「市民芸術論的転回―クリティカルな視点から見た「横浜トリエンナーレ2005」」は,暮沢剛巳・難波祐子編『ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性』(青弓社,2008)に収録されている.
*2 佐藤修悦・修悦体については,『PingMag』の記事「ガムテープの道案内」を読んでほしい.トリオフォーのサイトはこちら
*3 福住さんのバンカート・スクールでの講座「アートの綴り方3」についてはこちら
*4 福住さんの『美術手帖』での登場号は,こちらの雑誌記事検索で,著者名で検索すれば分かる.『artscape』でのテキストに関しては,こちらあたりからご覧あれ.
*5 今回のレクチャーがその一コマとして企画された,トリエンナーレ学校の,次回第6回(8/9)では,「横トリが面白くなる現代アート入門の入門」と題して山口裕美氏(アートプロデューサー&現代美術ジャーナリスト)のレクチャーが企画されている模様.詳しくはこちらのページから.


[ posted by jun ]