上の写真は,ホテルに関する記事(「横浜・三つのホテル計画」)で,森ビルによって再開発が行われると紹介した北仲通北地区の2008年6月18日現在の様子です.もともとの帝蚕倉庫の敷地内に建っていた建物の解体がかなり進行して,本当にここに超高層ビルを含む新しい建物が建つんだということが,現実のこととして少し想像できるようになってきた気がします.
この再開発では,帝蚕倉庫の建物の中で,上の写真真ん中に見えているレンガのストライプを帯びた倉庫(同じデザインで三つあった内の二つはほぼ解体が完了)と,ここ数年北仲BRICKとして使われてきた建物(下の写真)が「歴史的建造物」だということで,保存され活用されます.
これらの建物の設計者は,遠藤於菟[おと]と言います.今回,この建築家についての座談会記事が,有隣堂(横浜・伊勢佐木町に本店がある書店)のPR誌「有鄰」(第487号)に掲載されました.「有鄰」は有隣堂に行けば(最新号が)無料で手に入れることができますし,ウェブサイトでも見ることができます(こちら).「近代建築の先駆者 遠藤於菟と横浜」と題された座談会の出席者は,横浜の近代建築について研究してきた二人の建築史家(堀勇良・吉田鋼市)に,横浜市の都市デザイン室の室長だった人物(北沢猛)と有隣堂の社長(松信裕,余談ですが「有鄰」に毎回掲載される座談会には,社長が出席して発言している場合が結構多い).
さて,座談会の中身ですが,横浜における近代建築という話しからはじまり,遠藤於菟がどのように横浜と関わりを持っていったのかが語られ,彼が設計した建物が紹介されています.その中には,現在も日本大通にある三井物産ビルや,今まさにその行く末が問題になっている帝蚕倉庫の建物,そして生糸検査所などが出てきます.帝蚕倉庫の建物はもともと,生糸検査所の付属倉庫として同じデザインで隣接して建てられたわけで,生糸検査所の建物こそが言ってみれば「主役」でして,その偉容が「キーケン」として市民に親しまれたという話しが座談会中にも出てきますが,既に取り壊されて,跡地に建つ役所の概観にその姿が再現されているというかたち.その再現も「保存」と言われる訳ですが,そのあたりの話しや,それでは今回の帝蚕倉庫の保存がどのようなかたちになるのか,についても話題にされています.ということで,是非読んでみてください.もう一度リンクをはっておきます=こちら.こういう話し・歴史があって,さて再開発はどうなるのかな,と思いをはせてもらえば,と思います.・・・といっても,もう(この場所が)どうなるのかは全部決まってるんでしょ? ってツッコミもあるでしょうが.
ちなみに,北仲BRICKと一緒に北仲WHITEとして活用されていた建物は,冒頭の写真でも分かるように解体が始まっています.こちらは,遠藤の設計した建物ではないのですが,昭和三年に完成した古い建物ではありました.同じ敷地内にあった,みなとみらいの動く歩道や汽車道から,ツタの絡まった姿を見せていた大きな倉庫(これは戦後の建物)は既に解体が終わっています.新しいものを作るには,壊されるものが必要なのでしょうが,そんな中残され保存されるものがピックアップされる,その選択基準・論理はどのようなものなのでしょう? それ(残すという意志)は誰の意志なのでしょうか? そういうことについて考える素材にも,今回の座談記事はなるでしょう.
*北仲・帝蚕倉庫の再開発前の姿から,解体のプロセスについては,こちらで,写真で記録してきています.
これらの建物の設計者は,遠藤於菟[おと]と言います.今回,この建築家についての座談会記事が,有隣堂(横浜・伊勢佐木町に本店がある書店)のPR誌「有鄰」(第487号)に掲載されました.「有鄰」は有隣堂に行けば(最新号が)無料で手に入れることができますし,ウェブサイトでも見ることができます(こちら).「近代建築の先駆者 遠藤於菟と横浜」と題された座談会の出席者は,横浜の近代建築について研究してきた二人の建築史家(堀勇良・吉田鋼市)に,横浜市の都市デザイン室の室長だった人物(北沢猛)と有隣堂の社長(松信裕,余談ですが「有鄰」に毎回掲載される座談会には,社長が出席して発言している場合が結構多い).
さて,座談会の中身ですが,横浜における近代建築という話しからはじまり,遠藤於菟がどのように横浜と関わりを持っていったのかが語られ,彼が設計した建物が紹介されています.その中には,現在も日本大通にある三井物産ビルや,今まさにその行く末が問題になっている帝蚕倉庫の建物,そして生糸検査所などが出てきます.帝蚕倉庫の建物はもともと,生糸検査所の付属倉庫として同じデザインで隣接して建てられたわけで,生糸検査所の建物こそが言ってみれば「主役」でして,その偉容が「キーケン」として市民に親しまれたという話しが座談会中にも出てきますが,既に取り壊されて,跡地に建つ役所の概観にその姿が再現されているというかたち.その再現も「保存」と言われる訳ですが,そのあたりの話しや,それでは今回の帝蚕倉庫の保存がどのようなかたちになるのか,についても話題にされています.ということで,是非読んでみてください.もう一度リンクをはっておきます=こちら.こういう話し・歴史があって,さて再開発はどうなるのかな,と思いをはせてもらえば,と思います.・・・といっても,もう(この場所が)どうなるのかは全部決まってるんでしょ? ってツッコミもあるでしょうが.
ちなみに,北仲BRICKと一緒に北仲WHITEとして活用されていた建物は,冒頭の写真でも分かるように解体が始まっています.こちらは,遠藤の設計した建物ではないのですが,昭和三年に完成した古い建物ではありました.同じ敷地内にあった,みなとみらいの動く歩道や汽車道から,ツタの絡まった姿を見せていた大きな倉庫(これは戦後の建物)は既に解体が終わっています.新しいものを作るには,壊されるものが必要なのでしょうが,そんな中残され保存されるものがピックアップされる,その選択基準・論理はどのようなものなのでしょう? それ(残すという意志)は誰の意志なのでしょうか? そういうことについて考える素材にも,今回の座談記事はなるでしょう.
*北仲・帝蚕倉庫の再開発前の姿から,解体のプロセスについては,こちらで,写真で記録してきています.
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jun
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